産業社会批判、消費社会批判、そして教育批判の「批判思考」を開く時期。社会科学の地盤変えとして、経済決定論を経済規定へと規制条件化し、労働論を経済セックス論へと転移させ、制度論を本質論へかさね、かつ新たな政治論地平を開くことから、わたしなりの理論的問題構成が総体的に画定された時期である。イリイチと吉本さんとの直接対話が、自らの骨肉へと言説化されていく、思想の理論化を模索した。同時に、知的な文化生産のプロデューシングを多様に実行していく道を拓いた。
1986年から、わたしは出版生産拠点を、新評論から日本エディタースクール出版部(さらに新曜社と三交社)へとシフトした。理論誌の刊行をどうしても実行したかったからだ。福井憲彦氏と共編で雑誌『actes』(1986.5〜)を刊行し始める。社会科学そのものの理論地盤を変える知的生産活動をどうしてもやりぬかねばと、切実に感じていたからだ。ブルデューとフーコーを軸にして、思想基盤を変えるという作業を課していく。ブルデュー・ライブラリーの企画は、そのまま新評論へ残し、わたしは去った。そして、わたし自身の知的生産は、フーコーとブルデューをもって、超領域専門研究へとすすみ、文化科学考問い研究院を設立して、企業との協働ワークを研究プロジェクト型ですすめていくものへと飛躍する。
構造論的転換の理論地盤が「プラチック論」にあることをもって、国家、経済の理論的地盤変えを、「文化技術」論と「場所」論と「文化資本」論から提示、場所の実際活動と企業との協働研究ワークを土台にした文化生産を国内・海外で同時にはかった。現実と世界線での最先端理論との交叉を、わたし固有に創造提出した。現実実際へは、高度な最先端理論でしかとどきえないということだ。しかも、ブルデューの構造化された構造としての資本概念を、「構造化する構造」としての資本概念へ転じていかないと、分析理論でとどまってしまう、場所において、また企業において、文化生産が経済生産とリンクする論理言説をわたしは創造した。そして、同時に、日本の吉本思想の総体を、当人から直接にかたってもらいながら、世界線に布置する作業を全12巻にわたってはたした。総体的に、文化科学高等研究院の研究生産プロジェクトとしてすすめられた時期である。パリ、ロンドン、トロント、ニューヨークなど海外での国際会議を「化転プロジェクト」として主催し、多様な論者との協働ワークを遂行している。
単著を、2000年から2006年まで、わたしは刊行していない。2000枚におよぶ『哲学の政治 政治の哲学』に没入していたからだ、理論総体を総括する作業に6年間没頭した。さらに、研究生産拠点を東京からジュネーブに移して、ホスピタリティの発見とその研究開発に焦点を置き、日本では新たな出版生産の装置を創出することに専念した。ホスピタリティが、日本でまだまったくなじみが無く、サービスと混同されたままであった、そのホスピタリティの独自の領域を明示し、ホテル関係者とのリンクを形成し、新たな経済開発としてきりひらく可能条件作りに焦点をおいた。
すでに、デザイン文化技術論、都市論・建築論から、非分離・述語制・場所の日本固有の原理があることはつかんでいた、それを体系的に論じ、かつ西欧哲学原理とまったく異なる技術設計原理の可能性を日本の文化に探る哲学的考察へ歩みをすすめている。