1979〜1986年
この時期、新評論のF氏、日本エディタースクール出版部の吉田公彦氏、三交社の高橋輝雄氏、そして新曜社の堀江洪氏という、わたしの知的生産を可能としてくれ、わたしのしたいことをさせてくださった優れた編集の方々と知り合え、支えられたことがあまりに大きい。そして、河北秀也氏のアーキテクト・プロデュースによって、季刊iichikoの編集制作の路が拓かれることへつながっていく。わたしは、自在な、文化生産の場所をこの時期に開き築くことができ、実行しえた。


●1979.7
学校・医療・交通の神話(新評論) A

処女作。メキシコ帰国後、3ヶ月で一挙に書き下ろした。イバン・イリイチの思想体系を、学校・医療・交通の3大パラダイムととらえ、産業サービス制度批判の機軸を明示、同時に学ぶ・癒す・歩く自律性をポジティブなものとして提示する。社会が国家規定より制度規定から構成される事を開いた。ゲラになってから真っ赤に赤字をいれたため、活版の全部の組なおし。それが、どんなに活字工にたいへんな作業になるか、現場をみせられ、涕がでるほど申し訳なく感謝。以降、物を書く上での技術的な基本になったことが、内容以上に一番大きい。編集者のF氏から、本作りの基本をさとされたことも、以後の本生産の基盤になった。真っ赤な鮮やかな色をもとめ、F氏といっしょにつくった活字を並べただけの素朴すぎる表紙には、格別な思いが残る。「赤本」として世に出まわった、1万部近く売れた。
●1980.11
周郷博著作集(柏樹社) C


この期、もうひとつ『周郷博著作集』の編集の手伝いをさせていただいている。第1巻「人間・教育が生まれかわるため」、第2巻「人間との出会い・教育との出会い」の編集はわたしがした。メキシコから帰国後(1979年3月)、数ヶ月して、先生から突如連絡がはいった、「自分が探っていたことを君がやっていた、話しをもっとききたい」と言うのだ。もう退官され、渋沢の自宅へおじゃまさせていただいた。教育そのものを根底から見直そうとされていた、イリイチの書やオルターナティブ教育の書を読まれていたが、どうにもはっきりされていなかったようで、CIDOCの話しなどしたなら、たいそう喜ばれていた。学校、教育を疑うことの根源をつかまれようとしていた、それがまちがいではなかったという確信をわたしを通じてもたれたようだ。日本の教育学界では、それほど、この世界的潮流の動きが遮断されていたのだ。その翌年、先生は他界された、残された書庫へ入る事を許され、イリイチの原書に書き込みされたメモなどに、わたしは感動した。編集委員へたずさわるようにいわれ、論稿をすべて整理する作業をはたした。お茶の水大学など教育学世界では、わたしと周郷先生とが意気投合したなど、冗談ではないという風潮であったが、この第1巻に収録されたものを、ほとんど誰も理解しえずにいたということだ。中には、これを第一巻としたことを非難される風潮さえあった、先生が孤立無縁の晩年をおくられていたということだ、陽子夫人は、わたしに最後の年に出会えたことがほんとに歓びだったとおっしゃってくださった。 しかし、波多野完治氏からは励ましのお手紙を何度かいただいた。また、都留重人氏もわたしの仕事に支援のことばをくださった。こういう「大きな」学者が、大学にはいなくなってきていた、わたしの仕事は、教育学会からは排除的に扱われて行く、教育学の教官とはなっていない、そして「批判教育学」はいまだに日本では排他的な扱いにある。ばかばかしく、この期をもって、わたしは教育世界からは離脱して、社会科学そのものへと立ち向かう。また、この著作集の刊行を機に出会った中内敏雄氏を中心に、恩師小沢有作先生も関与されて、『産育と教育の社会史』シリーズが刊行される(1983.4?)が、わたしは表立つのを嫌い、末席をにごしていたのも、ずれの違和を感知していたからだ。それは、社会史を「政治」ぬきで歴史実証主義的にあつかうことへの違和だ。小沢先生からたしなめられつつ、しかし、ヨルダン・ビッショップの学校史を掲載するようにしたことと網野善彦氏とであえたことは意味があった。「ブルデュー教育論」を、第2巻に記載してはいる。
●1981.5
イリイチ・フォーラム編
イリイチ日本で語る:人類の希望 C

このイリイチ来日の折のセミナー録は、テープを聞き取りながらわたしが訳した、思いで深い書である。玉野井芳郎氏の主なる呼びかけで、イリイチ・フォーラムが設立され、綿貫礼子、鶴見和子、樺山紘一、宇井純、栗原彬氏などそうそうたる方々の参画をえて、下働きの有意義な仕事をさせていただいた。わたしの監修名でだすのはおこがましく、フォーラム編とさせていただいたが、編集全体はわたしの責にある。イリイチは、日本ではめぐまれた位置におかれたのも、そうした方々の積極的な関与がなされたためだ。立大で非常勤をしながら、ほそぼそと「イリイチ研究会」をもって、イリイチから送られてきた草稿の解読をなしていた、それが大きく来日とともに膨らんでいったのだ。これは、その後わたしが企画した「イリイチ・ライブラリー」として再刊されて行く。
●1983.1
消費のメタファー:男と女の政治経済学批判 A

在メキシコの折、ボードリヤール『消費社会の神話と構造』が翻訳され、書評するように送られて来た。産業社会が消費社会化している、その記号的批判が、サーリンズの経済人類学とともに、わたしの思考形態にのり、また読書人での「マルクスと現代」に寄稿を依頼され、総体としての「経済学批判」の閾を「象徴的生産様式」の次元からとらえ、賃労働批判としてのシャドウ・ワークをふまえ、経済セックスの様態を理論化したものである。さらに信大ゼミで、女性雑誌の分析をすすめていた「女と資本主義」を論じた。イリイチだけではない、という次元を開いたものである。産業社会批判と消費社会批判が、セットになってこそ現代社会の考察が開かれうる、この書が、わたしの実質的処女作である、理論基盤が総体的に展開されている、わたしの「経済・哲学草稿」である。
●1983.2
経済セックスとジェンダー C

イリイチから草稿vernacular genderが送られてきた、それを機に、「プラグを抜く」シリーズを企画、その創刊である。シャドウ・ワークをふまえ、バナキュラーな存在へ思想的・歴史的にせまった衝撃的な論稿を、即翻訳し、多様な論者に論じてもらう組み立てをした。わたし自身、制度化を「制象化」へと転じ、構造化される生成次元をつかむ論述へと向かう。バナキュラーな文化規制からセックスが離床し、賃労働/シャドウ・ワークの中性化された経済セックス世界が編制され、制度生産が文化・社会編制を根元から変じた。このシリーズは評判となった。そして、アナール社会史研究をなしていた福井憲彦氏と出会う。 わたしは、これを機に、出版生産のプロデューシングを多様に展開して行く、アカデミズムではなしえない文化生産を機能させるためだ。さまざまな方たちによるシリーズ生産を企画、プロデュースしていった。
●1983.7
教育・学校・思想(日本エディタースクール出版部)
吉本隆明氏との対談集 B

雑誌『教育の森』で、吉本さんに教育を語らせたいと長谷川孝氏から相手をせよと誘われ、それを機に、吉田公彦氏が、さらに対談を2回設定し、推敲に推敲をかさね、テープ起こしを半分以上削って完成された対談集。学生時代、神のような存在であった吉本さんと顔をつきあわせて語り合うなど、夢のようなことであったが、吉本さんは、まだ語りたいことがあるでしょうと誘ってくださったものだ。氏のこうですか、それともこうですかという真摯な問いかけに、必死に対応しながら頭がさがるおもいであった。それまで、鮎川信夫以外、対談書を出す事が無かった吉本さんが、一挙にその禁を解いた機となったものだ、栗本慎一郎氏との対談がその後、すぐだされていった。制度論を神話発生的に考察しながら、わたしは「共同幻想としての教育神話」を「学校神話」のより根元においてときあかす閾へと入っていた、本質論からみていかない社会批判は無効であると考えていたためである。理論が、思想と対話しえたということの手応えは、わたしの自信となっていった。
●1983.12
叢書・社会と社会学:世界社会学をめざして
栗原彬・今防人・杉山光信氏との共同編集(新評論)












●1984.10
ミシェル・フーコー1926−1984:権力・知・歴史
福井憲彦・桑田禮彰との共編著(新評論) C

フーコーが急逝した、それを機に、文化主義化されていたフーコーを社会科学的な権力論と歴史論から捉え返すべく、フーコーの論文集を緊急出版する手配をくんだ。論文を急遽集め、優れた訳者を配備し、訳チェックを社会科学的にシビアに転移し、その権力と知の視座から編集をした。既存の訳書には不満しかなかったからだ。いうまでもない、わたしにはイリイチなどよりフーコーの方が、はるかに自分へ合っていた、絶好の機と、緊急に刊行体制をつくった。すさまじい、日々であったが、充実していた。自分は、フーコー論の基礎たるべき長論文を記すことができた。これで、フーコーのイメージを180度転回しえたといえる、やっとフーコーがフーコーとして理解される土壌をつくった、現代思想なるものの地盤変えである。現代思想とは、わたしにとってはマルクス主義政治論をこえていくものであったからだ、文化主義的は流行現象に、これでくさびをうてたといえよう。吉本さんから、フーコーの像が根源から見えて来たという手紙をいただいた。
●1984.3
新版 : 学校・医療・交通の神話(新評論) A

評判となったため、内容構成を「現代産業社会批判」とし、初版4章、終章を改正し、副題「産業サービス制度論」とし、初版後産出されたシャドウ・ワーク、ジャンダー論を、専門権力とともに加筆すべく、全3巻(第2巻「経済セックスの神話:男と女の再生産論」、第3巻「専門権力の神話:自律の政治学」)へと拡張を予告して、改訂新版とした。制度論を神話発生論へと転じ、経済決定主義の社会科学思考から離脱する理論閾をひらこうとしている。薬師寺親彦さんと出会い、かっこよいデザインへとつくりかえていただいた。2巻、3巻は書かれることなく、2巻は『消費のメタファー』にて、3巻はずっとのちの『哲学の政治 政治の哲学』で展開される。総体的にイリイチ論として、2009年にまとめられる。
●1984.11
教育の分水嶺:学校のない社会(三交社) A

柏市の無名塾での講演に加筆したものであるが、学校批判の初発の認識と、学校化論・教育批判論のCIDOC版を、日本にたいして論述したものである。英語圏ではJoel H. Springが、日本ではわたしが、スペイン語圏では、Jesus Palaciosが波及させた。わたしが模倣しているなどと知ったかぶりの不埒な輩が批判していたが、CIDOC次元を世界で波及させる役目をわたしが日本ではたした、そういう世界線での文化伝達戦略をわかっていない浮薄な言である。CIDOCは、世界での学校批判・教育批判をほぼすべて集約し、まとめていた。日本ではわたしがやるとなっていた、ちょうどよい機会であったので、概論的に展開したものである。大学闘争を最後まで一緒に遂行した琴寄政人氏に答えようとしたもので、高橋輝雄氏の編集協力を得る機会となった。『学校の幻想 幻想の学校:教育のない世界』(新曜社、1985.7)へのイントロといえる。
●1984.12
性・労働・婚姻の噴流 (新評論)
樺山紘一氏との共同編集 C

「プラグを抜く」シリーズにおけるわたしの第2弾。吉本隆明氏と河野信子氏をまねいて、渋谷公会堂がいっぱいとなる講演・シンポの記録。吉本さんは、模造紙に手書きで何枚もかかれた国家と市民社会の構成における変容を論じられた。それはその後、氏の『超西欧的まで』に所収される。ヘーゲル的、マルクス的な図式の現代的変容が論じられた。それをうけ、わたしは「政治セックス」の概念をもって婚姻と労働をおさえ、対幻想と共同幻想の編制が労働規定を働かす様態を論じた。社会科学が排除する本質論と歴史論との交叉を問題構成していく。樺山さんは、ともするとほんとの事をいってしまう若輩のわたしの未熟さを戒められながら、温かい指導をしてくださった。
●1985.1
叢書・社会と社会学:文化のなかの政治(新評論) C

栗原彬氏のもとで、日常現実に対応する新しい社会学を開こうと企画された。わたしはこの著で、「ドナルドダックの文化帝国主義」をマッテラルトたちの解読を基礎に、さらに資料を付加し、文化帝国主義のイメージ操作を解読、『教育の分水嶺:学校のない社会』(三交社、1984.11)では、日常の中の政治として「教育の政治」を、バジル・バーンステインを主に「教育知」批判として論じた。栗原氏によってわたしは大学教師になりえ、今/杉山両氏の理解ある支えによって、教育学ではない社会学の道でたべていけるようになっていた、その方たちとの共同作業はありがたいたのしいものであった。この叢書は、内容が豊富すぎて、3巻で終了したが、社会学の新たな可能性を開いたものになったといえよう。
●1985.5
欲望のアナトミア・天の巻『消費の夢王国』
欲望のアナトミア・地の巻『消費の逆断層』
欲望のアナトミア・人の巻『消費の幻視人』
(ポーラ文化研究所) C

ポーラ文化研究所からの委託を受け、消費・欲望を超領域的に多分野から文化考察しようと、報告者を招き、わたしが久保田博氏のささえのもと、すべて討議をひきだし監修し実行したものだ。企業側からの最初の誘いであった。当時まだ国大協路線の意識にあったわたしに、企業側がわたしの批判考察を要求していることを知った驚きと、文化的な生産事業には企業からの協力がなされることで、多角的な展開が可能になるのを知った貴重な作業であった。消費論として、最初とも言える考察を開いた。そして、ここで内田隆三氏を知り、また河北秀也氏に出会う。そして、後に鈴木社長と知己となる。経済界と学問研究との協働ワークが、以後、わたしの主要な仕事としてスタートしていく。
●1985.7
学校の幻想 幻想の学校:教育のない世界(新曜社)A

栗原彬さんから新曜社の堀江洪氏を紹介され、まだ帰国したばかりで食えないわたしに、印税を先払いしてくださっていた、そこにようやく応えていけるものになったのも、教育理論の全面展開をなそうとするあまり、はてしなくなるので、その序論的なものとしてまずまとめあげた。「長い浮気でしたね」と、他の出版社で作業していた、わたしをじっとあたたかく見守ってくださった堀江さんであった。どうしてもひっかかったまま処理しきれないでいた「再生産理論」が、マルクス主義的理論閾として克服できず、長い時間がかかってしまったのだが、まだそのままである。それは、ブルデューとフーコーとのかさねあわせであったのだが、バイーンステインを十分にふまえ切れないと、先へすすめない言語コード論の壁であった。学校化批判をこえていくものをえがきだしたかったのだが、そのままで終わってしまっている、批判理論の限界を超えないとならない、本質的な理論閾があるのだ。約束したことは、まだ十分にはたせないでいる。堀江さんが亡くなられ、ひとり遺体が安置された場所へ訪れ、こころからの感謝をこめ、お約束をかならずはたしきりますと祈り、また数年もたってしまっている。批判教育学として画定されてしまった教育理論を、いまは、ホスピタリティ教育としての可能条件をみいだしえたことで、克服できる、学校教育の壁を越えるのは容易なことではない。思想史上、すぐれた思想家や論者は教育においてすぐれた論述を残している、それは近代の基盤に抵触するからだ。
●1986.4
学ぶ様式:非権力の領域へ(新曜社) A

学ぶ自律性、その多様なあり方を見いだしていくことが、学校化批判の意図である。それは、教育の権力学を教える側が自己へ向けて対象化仕切って行く事であり、自分の意図を超えて作用している力を知っておく事だ。学ぶ文化の様態を、吉本氏との対話からうまれた「非権力」の可能閾で拓く事を多角的に論じた。また、自分が、定職をもつ以前に、まかされた自由塾での実践を紹介した、これは雑誌やNHKのTVでも紹介されたものである。表紙は、知り合った河北秀也氏の写真・デザインである。
●1986.7
小さなテツガクシャたち
杉本治君・尾山奈々さんの自死から学ぶ(新曜社) C

小学五年で自死した杉本治君、中学2年で自死した尾山奈々さん、二人が残していた資料をすべてのせるようにした。彼らが、見抜いた学校、教師、教育の本質は、彼らがのびのびと生きて行ける閾にはない。商業的に彼らの自死を本にすることへの批判もかねて、すべてを資料化して公に残す作業を、双方のご両親に会い承諾をいただき、なしたものだ。子どもの自死は、いまだにつづいている、真摯に耳をかたむけるべきである。
●1990.10
消費のメタファー:男と女の政治経済学批判 A

「冬樹社ライブラリー」のシリーズ(荻原富雄編集)として再刊されたもの。内容は前著と変更無し。若輩のわたしが、島尾敏雄、中上健次、山口昌男、池内紀など他の方々と名をつらねてライブラリーに収録されたのも、わたしのものはこのころよく売れていたからであろうか。