思考の過程を進行形で述べていきます。
すでに、わたしなりの理論世界が構築されています。
そこでの基本概念もほぼ定まっています。その深化とさらなる関係構成を組み立てていきます。
資本、場所、ホスピタリティ、その設計原理としての非分離・述語制・場所・非自己です。世界線での理論成果を、そこへ組み込みつつ、新たな学問大系の言説を生産していきます。
『哲学する日本』の続編です。それは<もの>論、そして<こころ><感覚>論へとすすみ、「述語制」と「武士制」へとすすめられます。
思想・理論は、すでに領有されているものなのですが、それを再考をこめて、そこへの理論転移をふくめて示していきます。
「世界線」で、学んだノートを示していきます。
学びは、思考技術を自己技術化すべく、永久にすすめられていくワークです。

◉思考の地盤として、近代の主客二元論をいかにこえていくかです。
その理論対象として、主体的実践でも客観世界でもないものとして「プラチックpratiques論」を設定しました。
いわゆる現代思想という構造主義的転換において、アルチュセールもフーコーもレヴィ=ストロースもみな、pratiques論であるのに気づいたのです。 これが、翻訳書では、レヴィ=ストロースの『野生の思考』をのぞいて、みな「実践」と訳されています。「実践」は、praxisです、それは pratiquesを切り落としてしまうロジックです。その張本人がサルトルです、『弁証法的理性批判』ですが、その翻訳書はpraxisも pratiquesも「実践」と訳されてしますから支離滅裂な翻訳になっています。pratiquesをもっとも意識的に自覚して論じたのが、ピエール・ ブルデューです、そのLe sens patiquesは「客観的客観主義」と「主観的主観主義」への批判です、なのに翻訳書は『実践感覚』と平然と訳している、すさまじい誤認です。すると、 サルトルはpratiquesではないpraxisが重要だというのに、「実践ではない実践が重要だ」と訳され、ブルデューは反転してpraxisiを論 じるのではないpratiquesを論じるのだ、と主張しているのに「実践を論じるのではない、実践を論じるのだ」と、そうほう、同じ論旨であるかのよう に邦訳されているのです。ひどいものですが、これはすべて暗黙のマルクス主義思考からきているものです。アルチュセールの『再生産について』では、山本か らの指摘があるが、われわれは「実践」と訳すと、まったく分かっていない状態が続いています。アルチュセールが、イデオロギー論において、日常の行為を問 題にしたことが支配や革命の「実践」の論理だとおもいこまれているからです。
pratiquesは『野生の思考』では、「慣習行為」と訳されています、わたしは「実際行為」と訳します。<仕為>と造語訳してもいいのですが、ときお りつかっています。なにも意識していない、習慣・慣習になっている日常の行為です。そこでは、主客は分離していません。フーコーは、そこが言説=ディス クールに規制された行為になっているのを解き、ブルデューは階層によって社会規制されている世界を明示しました。レヴイ=ストロースは、構造の関係項に よって規制されていると分析します。目的意識的実践に囚われたマルクス主義と、実存投企に囚われた実存主義が見失った対象閾であり、現象学が対象にしきれ なかった領域です。
マーシャル・サーリンズが、レヴイ=ストロースをふまえて、概念コードが、「実践」と「実際行為」の双方を規制していると総括しました、そこが基本です。
つまり、対象世界は概念コードの世界です、実体ではなく実体を概念化している空間です。思考スキームがそこへ入り込んでいますから、対象を観ていると同時 に思考スキームを観なければなりません。対象は、言語によって認識され語られるのですから、そこに言語形式と思考形式の双方のコード体系が規制しているの です。ここは、客観化を客観化しないとうきだしません。
わたしの思考は、つねにこれをなしています。そこに、マルクス主義・構造主義をこえた世界の界閾が出現します。
そこから、「分離・主語制・社会・自己」のコード体系に規制された世界と、<非分離・述語制・場所・非自己>に規制された世界の基本原理が、技術・経済・文化においてまったくちがうことをはっきりさせました。
それはさらに言語形式として、主語制言語様式と述語制言語様式とで、まったくちがうものであることを、言語理論からあきらかにしています。『述語制の日 本』(2015年)がそれです。プラチックの対象は、「教育・医療・交通」の現代社会世界から「幻想・古事記神話」の古代心性、そして「もの・こころ・わ ざ」となされてきました。

■近代二元論の超克だ、と主張した廣松渉が指摘しながらなしえなかった閾を構造主義の先に開いています。
廣松が、正鵠に指摘しながらなしえなかったのは、物象化論が商品物象化しか示しえなかったからであり、言語論が命題形式の主述コプラから脱出しえなかった からです。前者は『物象化論と資本wパワー』として、後者は『哲学する日本』『<もの>の日本心性』『述語制の日本』において、述論しえています。