他者、物、此岸、の思想であることで、述語制、場所、非自己、非分離を成し遂げ、初期マルクスを延長しえている希有な思索家だと思います。
つまり、非自己の場所から、自己や主語性としての存在のすべてを『他者』として位置づけ、そして、『此岸』のなかで『物』を、述語性によって非分離に位置 づけるその具体の思考によって、ハードウェアという言語の彼岸としての人間というソフトウェア存在を超えていくこと・・・。
 ハード(言語)とソフト(人間)の二元論の外部に、山本哲士氏は、マルクスの資本精神の自然が、情報資本主義の自由の限界を、生成的に超えて いく指針を鋭くみいだしているようにおもえます。他者、物、此岸、の思想であることで、述語制、場所、非自己、非分離を成し遂げ、初期マルクスを延長しえ ている希有な思索家だと思います。
つまり、非自己の場所から、自己や主語性としての存在のすべてを『他者』として位置づけ、そして、『此岸』のなかで『物』を、述語性によって非分離に位置 づけるその具体の思考によって、ハードウェアという言語の彼岸としての人間というソフトウェア存在を超えていくこと・・・。
 ハード(言語)とソフト(人間)の二元論の外部に、山本哲士氏は、マルクスの資本精神の自然が、情報資本主義の自由の限界を、生成的に超えていく指針を鋭くみいだしているようにおもえます。

「概念芸術の地平」を編集し終えた今の時点で、分ったことをまとめてみる。
 まず山本哲士氏の『哲学する日本』という書物は、一般的な日本文化哲学を解説する哲学書ではない。
 西欧思想の現代的到達点としてフーコーを捉え、返す刀で、日本思想の到達点としての吉本隆明を捉え返すことで、新しい「世界知」を切り開く、真の日本発 の世界思想である。アジア的段階から西欧的段階に移行する自然に解放の思想をみるモダンの自我の現代日本=吉本隆明と、西欧的段階の解体的終末を内省する クラシックな自己の現代西欧=フーコーが、共にその臨界で、「自己」というものの「始末の仕方」に思想課題を見出していることに注目し、西欧と日本の限界 を同時に超えていこうとするものである。
 精神医学における科学と経験の差異から出発したフーコーの思想は、『言葉と物』においてその骨格を完成した。人文科学の考古学という副題を持つ『言葉と 物』は、17世紀古典主義時代において、一般文法、富の分析、博物学としての表象秩序が、その頂点において、人間という主観と言語という客観をソフトウェ アとハードウェアの対比として疎外し、19世紀、「生命の発見」と共に、西欧史における「人間の消滅」への分水嶺をなす、知の宿命を予告する不吉な書物で ある。
 フーコーによれば、18世紀カントによって、言語の客観は人間の主観のもとに下部化され、同時に、言語の客観によって人間の主観が整備されていったとい う。ルネサンス期16世紀末まで、類似:resemblanceに一元化された思考は、その外徴をめぐって比較:comparisonの思考に変貌し、比 較の思考は、一般文法、富の分析、博物学、の表象秩序を、マテシス:Mathesisとタクシノミア:Taxinomiaの秩序として成立させた。しかし タクシノミアは18世紀、質・量・関係・様相というカントの「超マテシス」のカテゴリーの発生論の文脈に統合され「生命」という概念を疎外=表出した。こ の時タクシノミアは、マテシスとの差異を喪失し「発生論」の記憶となった(だからフーコーは、西欧17・18世紀においては「生物」というタクシノミアの 記憶は見られても、18世紀末「超マテシス」が疎外した「生命」という概念を見いだすことは出来ないというのである)。そしてカテゴリーがハードウェア= 科学として集中されていく19世紀、「生命」の頂点で経験=主観としての人間がソフトウェアとして登場した。がしかし、19世紀から20世紀の、言語学、 経済学、生物学、という客観のハードウェアに純粋化され変成されていくなか、人間は逆にそこから排除されてゆきつつあるという。つまり科学において、言語 という客観のハードウェアは、主観のソフトウェアから人間を疎外し、人間をソフトウェアの部外者としていきつつある。そして、さらに経験においては、人間 という主観のソフトウェアの場面で、知識と真理と権力の同一性が強化され、ますます主観というソフトウェアから人間は疎外されざるをえない関係にあるとい うのである。
 この引き裂かれた言語と人間の間で、フーコーは、新しい知識の技法を提案した。デシプリン権力とパストラール権力としての西欧知識人の知の経験を、「自 己への配慮」として捉える「自己のテクノロジー」である。ここには人間を排除し解体する西欧の主観を、言語の客観から擁護しようとする姿がある。それは、 モダンに展開し解体へむかう西欧文明を、クラッシックな自己としての西欧文化の場所から捉え直し、知識人の責任を果たそうとするものだった。
 一方アジア日本においは、経験から出発し秩序の可能性を模索する、中世-近世-明治から今日まで一貫して「発生論」の言語が、計算可能な秩序の学として の「マテシス」の科学によって古代性から脱し、クラシックとモダンを重ねあわせる、質・量・関係・様相というカントの「超マテシス」のカテゴリーに、「生 命」経験としての人間の主観を合理的に整備-生成していくこと、つまり経験が科学に合理化されるモダニズムを、時代思想としてきた。
 第二次世界大戦の敗戦後、クラシックを喪失した経験と主観の人間を、モダンの科学と客観の言語が正し導くものとされ、日本のモダニズムはさらに徹底され ていった。それは、科学という「超マテシス」の客観=精神が、人間という主観=生命体を規定することであり、知識(科学)が表現(生命)を抑圧するアジア における西欧的な脱皮への構図であった。
 吉本隆明は、表現(生命)の真の解放を、言葉の本質としての「発生論」に求めた。つまり吉本隆明は、フーコーの科学=マテシスと経験=発生論という区別 それ自体を、クラシックから脱出してきたモダンな自我による発生論の「言語の場所」として捉えた。そしてモダンな自我にとって、発生論の言語それ自体が客 観と主観の二重性体を成していると主張したのである。発生論としての言語は、クラシックから脱出したモダンな自我の生命性によって表現されてはじめて言語 となるその言語とは、自己表出性(主観)と指示表出性(客観)の織りものの姿を成しているというのである。
 しかし、フーコーを現代知識人の限界として理解する山本哲士氏にとっては、吉本隆明の自己表出性と指示表出性というモダンな自我の認識では、知を真理化 し、権力化に結びつくことで、生き延びてきた西欧のクラシックからモダンまでを含んだ「自己」を溶き解す力にならないと考えた。
 ここで山本哲士氏は、「自己表出性と指示表出性」というモダンな言語の生の理解と、自己への配慮としての「自己のテクノロジー」というクラシックな人間 の死の理解とが、180度に対峙したマテシスと発生論として東西の主観の相違性と同一性を成しているとみなした。つまり、モダンな「発生論の自我」の生に 位置する吉本隆明の無意識と、クラッシックな「マテシスの自己」の死に位置するフーコーの無意識とは、それぞれ現代知識人の無意識の同一性のなかにあると 見たのである。
 山本哲士氏は、フーコーのクラシックな自己の無意識=エスと、吉本隆明のモダンな自我の無意識=エスとを、等価にみつめるそこに、ジャック・ラカンの視点を持ち込んだ。
 まず山本哲士氏は、吉本隆明の自我意識としての対象とフーコーの自己意識としての認識が、カント的な「対象=言語」と「認識=人間」と同じ対角180度 の関係であると考えた。そして、言語=対象としての「発生論」のモダンな自我の生と、人間=認識としての「マテシス」のクラシックな自己の死とが、180 度に対角関係する同一の直線上に対して、等価90度に対置する “精確90度”の新しいタクシノミアとしてのラカンの『他者』の視点の《非自己》から、西欧現代と日本現代の枠組みを同時に超えていこうとしているのであ る。
 山本哲士氏は、クラシックな自己のテクノロジーのフーコーの死も、モダンな自我の自己表出の吉本隆明の生も、ともに精神に信をおく、形而上学的な彼岸の超マテシスの実践(プラクティス)思想であり学者の場に止まる世界のなかにあると考えた。
 その学者的な限界を打ち破ろうとする山本哲士氏は、行為に信をおき、世界という場を、現実において物が存在論的に展開する場所として捉える形而下的な此岸における反または非マテシス/タクシノミアとしての新しいタクシノミアの実際化(プラチック)哲学を開いた。
 そこでわたしたちは、「発生論」の聴覚能/音楽素が、「マテシス」の視覚能/絵画素と180度で対置するその直線上に、精確90度の角度で、反または非 マテシス/タクシノミアとしての「新しいタクシノミア」の触覚能/彫刻素が機能する述語制の《非自己》の視点によるマルチイメージの世界を提案することが 可能となった。
 以上の見解から、山本哲士氏は、
 他者、物、此岸の思想に立つことで、述語制、場所、非自己、非分離を成し遂げ、初期マルクスを延長しえている希有な思索家だと思います。
 つまり、非自己の場所から、自己や主語性としての存在のすべてを『他者』として位置づけ、そして、『此岸』のなかで『物』を、述語性によって非分離に位 置づけるその具体の思考によって、ハードウェアという言語の彼岸としての人間というソフトウェア存在を超えていくこと・・・。
 ハード(言語)とソフト(人間)の二元論の外部に、山本哲士氏は、マルクスの資本精神の自然が、情報資本主義の自由の限界を、生成的に超えていく指針を鋭くみだしているようにおもえます。
(東京芸大講師)