日本を調べれば調べる程、原初は「古事記」、そして歴史的な達成・開花は、戦国時代を核にした武士の時代になされています。生活技術も統治技術も芸術も、「武士制」が構造化しています。気づいたこと、知ったことを記述しながら、思想的に武士制が<日本>の地盤であることの意味を明示していきます。

「武士制」とは、わたしの造語である。その意味は二つある。

歴史的な時代画定として、戦国時代と呼ばれた、後北条の登場と敗退までのその100年間の「平和的状態」を頂上にして、それを可能にした歴史過程条件とその表層的消滅である江戸時代の前までを通時的にさす。江戸時代は、武士制が制度化されその本質を構造的に喪失したとみなす。武士制の開始の契機を将門の東国独立に置く。「戦国時代」とは日本を空間的におけば戦争状態と見えるが、場所において戦闘は境界域でときたま起きているだけで、ほとんど日常的には平和状態にある、ただ、いつ戦闘が起きるかもしれないという緊張状態ではある。
第二に、構造的に、武士支配であるが、百姓との共存状態にあり、場所統治の独立的構造である。この様態を、「封建制−封建的生産様式」という一般用語によって、場所差異を消失させてしまう近代国家を暗黙前提にする歴史認識にたいして、場所の固有性を強調すべき「武士制」とした。つまり、ナショナルな統一国家は存在していないという構造的特性を普遍的に対象化することである。島津的生産様式があり、上杉的生産様式があり、後北条的生産様式がある、それらは「生産様式」が場所ごとで異なる種別性にあり、相互作用していたということだ。この差異を一般化する民族国家化された歴史認識も、また地域的特性化する閉じた地方史主義的歴史認識も、誤認された歴史認識であるとみなす。それゆえ、場所論的歴史認識の理論を打ち立てねばならない。
武士制を決定規準とすることで、日本の可能条件が見えてくる。
歴史とは、歴史家たちによって作り出されたものでしかない。実証性の外在的客観真実などはない。わたしは、武士制においていかなる歴史研究をも信用していないが、資料だけは仮定的に依拠していくほかない、素人として歴史資料を発掘するだけの器量はないが、資料の恣意性がいかなるものであるかは、かつての自分自身の歴史研究(メキシコ1920年代歴史研究)からいやというほど知っているゆえ、つねに疑いの批判性だけはもって接している。
つまり、わたしは「武士制」によって、歴史を作ろうとしている。だが、歴史研究者たちが暗黙にもっている哲学的野心としてではない――日本では天皇制批判としてその野心は出現してきたが誰一人実現しえていないのも歴史認識理論が粗雑であるからだ、つまり彼らは歴史実証主義をもって哲学・理論を軽んじている、軽蔑さえしている、そうした怠惰から歴史は書き換えられない。エンピリカルな検証と理論的検証とから、新たな次元閾はひらかれうる。
近代ナショナル国家の歴史的必然性がある、しかしながら、それはいまや機能障害をおこしている。新たな歴史段階を構築していかねばならない、その決定規準が日本では場所の多元的統治を可能にした武士制にあるということが、わたしの歴史認識規準である。吉本隆明氏は前古代へ史観拡張することで、思想的にそこを表出したが、前古代が現実的な政治経済統治として出現したのが武士制であり、武士制の時代にさまざまな文化様態が「日本的なもの」として出現確定していった、それが江戸・近代のナショナル統合をへてのこれからの規準になると、わたしは考える。そのとき、わたしは近代国家批判のみならず社会主義革命国家批判をも世界史規準として同時にふまえている。
わたしの理論的・思想的な規準に耐えうる歴史研究から学んでいく。半分は信用できる歴史考証をなしえているひとたちはほそぼそながらいる。といっても、手元だけで100冊をこえる文献があるが。
制度化された閉じたアカデミズムが、理論的・思想的考察を無視するのも、自らの粗野な歴史認識論を保守しているだけであるからだ。その背後には、自分の給与生活を保守するということ以外の何事もない。中層インテリが、歴史文化市場としてそれに追随しているゆえ、それが波及しているにすぎない。ほっておけばいい。ただ、歴史は、給与生活者意識などを裏切って出現していく、その閾をわたしは確信しているだけだ。
わたしの作業は、不能化した者たちが無視しようとも、いずれ歴史がかならず評価する。
愉しく、真摯にいまは歴史へたちむかうだけである。歴史について学ぶのではない、歴史から学ぶのだ。